銭湯で暴れているガキに多数派の論理を見る件

銭湯で暴れているガキに多数派の論理を見る件イメージ

私はよく、近所のスーパー銭湯へ
浸かりにいくのですが、
休日などは子供連れが多く
マナーの悪さに辟易することが
しょっちゅうあります。

私が湯船の縁などに腰掛けて、
ゆっくり寛ごうとしている
目の前で騒ぎまくっている子供を
全く制しない親の頭の中が
どうなっているのか
考えたりしているのですが、
1つ思い当たるのが、社会の
風潮に甘えているのではと
いうことです。

誰しも子供を持つだろうし、
子を持つ親の苦労は当然分かって
もらえると思っているようで、
さらに、世の中的にも子供のすることに
寛容であることが当然だろうと
考えているような感じがします。

そしてその根底にある考え方は
多数の人間が賛同していることは
正しく、少数は無視しても良い
といったところに行き着くのでは
ないでしょうか。

マイノリティ(少数派)は
マジョリティ(多数派)に
淘汰されていくという現象は
確かに、この世の中の1つの
原則であると言うことができます。

人間以外の生物間でもありますし、
生物以外の現象でもそれは起こっています。

例えば砂漠の砂の中にトラック1杯分の
石ころを投げ入れたところで
あっという間に埋もれてしまい、
どこにあるのか分からなくなります。

他にも海の中にタンカー1杯分の真水を
投入しても、海水が真水になることは
絶対ありえませんね。

これはもう宇宙の原則の1つだと
いうことが出来るかもしれません。

なので、なまじっか知能のある
人間が作った社会では、
少数派は黙っていろ、
といったことになっても
それは当然なのかもしれません。

でもよく考えてみると、
私が生きてきた人生において、
なぜか少数派の部類に入っていたことが
とても多かったなと自分自身思います。

もう大昔のことですが、
保育園の卒園式で「アリとキリギリス」の
劇をやらされたことがあります。

卒園児の中で2人だけキリギリスを
やらされ、そのなかの1人が私だった
その時から、私の人生は少数派を
生きることに決まって
しまったのかもしれません。

学校時代も、社会に出てからも
少数派であるが故に少数派が必ず
受けるであろう、いじめのようなものは
一切受けたことはありませんでしたが、
変わり者扱いはされていたのは
間違いないと思います。

13年間勤めていた会社でも、
もういつクビになってもいいと
常に覚悟していて、
おかしいと思ったことははっきり
言っていましたし、上司とは
よくケンカもしていましが、
他の社員から見ると
とても変わり者に映っていたと思います。

それなのに、自分で好き勝手できると
思って、独立開業を果たしてからは
逆に変わり者であることを止め、
いつのまにか社会にとけ込もうと
するようになってしまいました。

食い扶持を得るために、
自然と多数派と共存するように
なってしまったのだと思います。

結果、人との関係を円滑に進める
といった大切なことも身に付きましたが、
個性を埋没させてしまうといった
マイナスの面もあり、
なにか人生が平板なものになって
しまったようにも感じています。

なので最近は、また変わり者の
人生に軌道を戻そうかと
思ったりもしています。

などと、考えを飛躍させていたら、
目の前で暴れているくそガキに
湯船の水しぶきをかけられ
なぐってやろうかと思ったりしている
今日この頃です。

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